美大を目指した浪人時代

文/写真:大滝 道晴(関東支部正会員/本部事業部長/理事)

■将来の自分の姿への決断

明治大学付属の明治高等学校(当時は御茶ノ水)に通う高校生の私。御茶ノ水・駿河台周辺は、各種専門学校や予備校が多いエリアでもあります。ある日、通学途中にある「御茶ノ水美術学院」という、美大を目指すデッサンや絵画を教える学校があり、何気なく覗いてみて、その学生のデッサンの上手さに触発されて、習うことしたのは高校2年の終わり頃でした。その後、明治大学経営学部に入学しましたが、私は、3ヶ月で中退して、翌年、美術大学を受験することを決意。父親は激怒。合格しなかったら「勘当だ」とも言われました。そして、美大受験を目指して、浪人生活が、重いプレッシャーでスタートしました。学校は「お茶の水美術学院」と「代々木ぜミナール芸大受験科」の2校に通い出しました。学費は、一部バイトをしました。

我が母校(明治大学明治高等学校)(駿河台:千代田区猿楽町)

当時の駿河台上(レモン画翠駿河台店)(画材とカフェ)

御茶ノ水美術学院(現在の駿河台校舎)

代々木ゼミナール芸大受験科(現在はない)

■浪人生活

2つの学校に通い、デッサン(鉛筆・木炭)、絵画(水彩・油絵)、平面構成、更に、一般学科の勉強の毎日がスタート。 家でもデッサンをするため、「ヘルメス」の石膏像を「世界堂」(新宿)で購入して、デッサンに励みました。美大予備校生になった、私の常備品としては、銀座の画材店「月光荘」スケッチブックと鉛筆、練りゴムを持ち歩く日々でした。さて、学校に授業は、週単位で変わり、特に、デッサンの授業の準備は、パネルの水張りです。サイズは大小あり、ケント紙やコットン紙を水で刷毛塗りして、ベニヤのパネルに、紙テープで周囲を止めて、乾かす作業があり、これがスタートです。地方からも、美大を受験する浪人生の多く、学校には3~4年も浪人して、芸大を目指すツワモノもいました。皆、それぞれ得意な課題もありました。

石膏像

石膏デッサン

静物画

銀座の画材店「月光荘」スケッチブック

タオルデッサン

パネル

水張りテープ

■大学の特別受験コースにもチャレンジ

短い夏休みは、美術大学の受験生のための夏期講座に行きました。自分の力を試すよいチャンスでした。特に、武蔵野美術大学の夏期講座での静物画デッサンでは、優秀作品に選ばれて、少し自信がつきました。さて、年が変わり、美大受験が近づいてきましたどの大学を受験しようか考えた結果、芸大は無理そうと考え、武蔵野美術大学、日大芸術学部、多摩美術大学、東京造形大学に的を絞りました。最終的には、武蔵美の芸能デザイン、日大芸術学部、東京造形大学の造形学部デザイン科の3校を受験することにしました。受験日が近づくと、気持ちも落ち着かずデッサンも描けない状況になり、デザインの雑誌や本を眺めている時間が多かった時 期でもありました。いよいよ、試験日がやってきました。

■受験した大学全てに合格

まず、日大芸術学部の試験でした。内容は、デッサンと水彩画の実技試験でした。水彩画は、ポリバケツに水が入って、ホースが置かれている課題でした。武蔵美は、川端康成の雪国の小説「トンネルを抜けると、そこは雪国、、、、」を描く課題と、静物画デッサンでした。最後は、東京造形大学で、立体構成とデッサンでした。特に、キューブの発泡スチロールを削る立体構成は、初めて経験で、キューブ体のイメージを残さずに削った記憶があります。3校とも、学科試験とデッサンはまあまでした。その結果、日大芸術学部、東京造形大学は合格。武蔵野美術大学は、補欠で合格しました。父親に報告すると、入学金を払ってくれると言ってくれました。「感謝、感謝」。

■東京造形大学に入学決定

武蔵野美術大学にも行きたかったのですが。補欠合格は入学金が少し高いので、親に負担のかからないように、東京造形大学 に決定しました。決めては、面接時に聞かれた、「バウハウスを知ってますか?」という問いに「ドイツのワイマールにあったデザイン学校」と答えた。「それだけ知っていればOKです」と面接官。私は本を読んで、知っていて良かったと思いました。東京造形大学は、「バウハウス」理論に基づく、よい大学に入れたと思いました。私が、19歳の春でした。  

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